精神的な充実の大切さについて

いつの間にか、心が張り詰めている、イライラがたまっている。

気がついたら「なりたくなかったひどい人物像」に自分が成ってしまっている。

上のようなことが、あなたの状況にあるのではないでしょうか?

 

以下のような仕組みで起きてきてしまうことなのだと思うのです。

たとえば、職場で考えてみましょう。

利潤の追求がビジネスの目的であるゆえに、成果物の締め切りや品質への要求は厳しくなり、職場の人々の心は自然と余裕のないものになります。加えて「自分は楽をして、良い立場や良い収入がほしい、人のことなどどうでも良い」と欲に目がくらんだ人々も多く、恩を仇で返されてしまうような場面も多々あります。

ギスギスしている、欲という泥にまみれている、職場というものはこんな環境であることが現実なのだと思います。そして朱に交われば赤くなるように、気がついたら自らもその泥に染まっていき、恩を仇で返してしまうような心の癖がついていってしまう、このようなカラクリで「なりたくなかったひどい人物」になっていってしまうのです。

家庭でも色々と起きてきますよね。親子でも夫婦でも兄弟姉妹でも皆めいめいに心は違うというのに、相手にはなってほしい姿を要求して、しかし自分は変わろうとはしない。このような心の状態のままで親や配偶者や子供に接していると、だんだんイライラと腹が立ってきてしまう…。

 

上の事態は細かいことなのかもしれませんが、このような悪い心づかいはまさにほこりや汚れのようなもので、初めの頃は簡単に掃除ができたはずなのに、積もり重なっていくとこびりついて綺麗にすることが難しい心の癖や性分となっていきます。ついには「何が悪いか分からない」という無自覚なまま人を苦しませる状態となって、汚れに汚れを重ねていくようになります。こうなってしまえば、人の信頼は失墜し、仕事は立ち行かなくなり、家庭は崩壊していくなどの悲しみの事情が起きてきたり、心に抱えていたストレス、または悪い習慣が積もり重なり苦しみの病となっていきます。

つまり、心のあり方の積み重ねが悪ければ、運命は狂っていくということです。

三ッ みれバせかいのこゝろにハ よくがまじりてあるほどに

四ッ よくがあるならやめてくれ かみのうけとりでけんから

(みかぐらうた 九下り目)

 

なぜ、本当は良い人でいたいのに、気がついたら心の方向がおかしくなってしまうのでしょうか?

それは、目に見える物質的な世界を頼りにして、目に見えない精神的な世界を軽視しているからなのではないのでしょうか?

良い家が欲しい、良い車が欲しい、皆が羨望するような社会的な身分が欲しい。このように思う方がほとんどなのでしょうし、それに向けて努力することは素晴らしいことなのだと思います。

しかし、目に見える物質的な世界を追い求める以上に、目には見えない精神的な世界での充実を目指さなければ、やはり迷いが出てまた苦しみの方へ向かってしまいます。運命を左右する心のあり方に目を向けなくなってしまうからなのです。

例えば、良い身分があることを心の頼りとします。努力をして結果を出そうとする、ここまではとても素晴らしいです。しかし、努力が結果として実らない、欲にまみれた人々に邪魔をされるなど努力の過程で様々な理不尽な目に遭う、結果は出たのに正当に受け取ってもらえない…。こうした自らにとって不都合なことは、起きてきますよね。こんな時、心のあり方はどうなるのでしょうか?

求めている身分が手に入らないことに、「このままで良いのだろうか?」と迷いを感じて真面目に通ることの価値が分からなくなり自分も悪い方向に流されてしまったり、苦しみや悲しみを感じたり、理不尽を引き起こしてくる人に対して腹立ちも抱くでしょう。目に見えることに心の頼りを置くだけでは、迷いは発生し続け、心の汚れは増していくばかりになってしまいます。

では、目には見えない精神的な充実に心の頼りを置いたらどうなるでしょうか?精神的な充実を目指しているという状態を具体的に「誰がどうだとしても、自分は誠の心で通れば、神様は受け取ってくださり、運命は必ず陽気ぐらしへ変わっていく。理不尽なことや悲しみは、すべて自らの心のトゲをとるために起こってくることである。」と信じていることだとします。

一生懸命に努力します。その過程で欲の泥にまみれた人々が悲しみを引き起こしてくるでしょう。「自分だけ真面目にやっても意味がない…。」と迷いが出てくるものでしょう。しかし、精神的な充実を目指していれば「自分だけは誠の心で通るのだ。世のため人のため、神様のために尽くすのだ。その心を神様は受け取ってくださるのだ。」と踏ん張っていくことができるのです。そうして、自分の心を、汚れにまみれてしまうのではなく、神様をほうきとしてお掃除をされた綺麗な状態に持っていくことが出来るのです。

 

こうして、目に見える物質的な豊かさではなく、目には見えない精神的な充実に頼りを置いていけば、迷いが格段に減り、心の綺麗さが保たれていき、そしてなにより、運命が陽気ぐらしへと切り替わっていくのです。自分だけはブレずに誠の心で世のため人のため、神様のために生きていく、そんな気持ちで通り続けたら、信頼をしてもらうことなど容易いことです。そして自分の成人次第に、良い人もあたわり、仕事や家庭での充実もできてくるのです。

目には見えない精神的な充実を目指して努力して、そしてその心の成人が鏡のように映って、目に見える物質的な豊かさを招いてくるということです。

三ッ みなせかいのむねのうち かゞみのごとくにうつるなり

(みかぐらうた 六下り目)

だん/\と心いさんてくるならバ せかいよのなかところはんじよ

(おふでさき 第1号9)

 

 

「良い家が欲しい、良い車が欲しい、皆が羨望するような社会的な身分が欲しい。」そのように物質的な豊かさを目指すならば、目には見えない精神的な充実をまずは目指していく。人がどうであれ、自分だけは誠の心で通る。世のため人のため、ない人間ない世界をつくってくださってから1分1秒あますことなくご守護くださる神様のために尽くす。このように通る事が、自分の運命を陽気ぐらしへ切り替えるためには重要なのです。

 

つまり、精神的な充実を目指して、魂や神様のことから物事をみていく、そして心のあり方が天の定規に沿うように努力していくことは、とてつもない値打ちのあることなのです。ちょっと考えるだけでは、何の利益にもならなさそうなことでも、長い目で見たら、誠の心は、実に頼りがいがあり自分をたすけてくれるものなのです。

そして天の定規に沿う心の通り方を伝えてくれている親神様・教祖の教えには、私たちの運命を陰気なものから陽気なものへ切り替えてくれるほどの、凄まじい値打ちがあるのです。

誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い。

(おかきさげ)

では、具体的にどのようにしていくことが精神的な充実を叶えてくれるのでしょうか?

今回は長くなってきたので、また今度書いていきますね。一緒に頑張っていきましょう。

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