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「宗教なんかいらないよ。」と言われて

私は今、単独布教といって「人だすけに歩く中で与えて頂けるものだけで生きていく」という修業をしています。世の中でも単独布教をしているような方はあまりいらっしゃらないですし、自分自身、このリスキーな生き方をしている道中において、火の玉ストレートな気持ちで神様に向かっていく日々の記録を残しておくのはとても貴重なことだと思ったので、今日からこの単独布教に関して書いていきます。

天理教スカンピン単独布教師の日報のはじまりはじまり…。

 

2022年4月13日

・戸別訪問:192件

・お話取り次ぎ:63件

・おさづけ取り次ぎ:23件

本日はこんなことが起きてきました↓

精神的な病の男性と出会った

おたすけが必要な方がいらっしゃらないか、毎日毎日、戸別訪問しています。別の御用がない限り、雨の日も風の日も雪の日も嵐の日も、歩いています。この令和の時代に、昭和のスポ魂アニメの勢いで、歩いています。

そして本日、歩いているとある男性と出会いました。左右の目の焦点は合っておらず、何かを抱えていそうでした。

毎回のことですが、私はこう言うのです。

「お忙しい中、失礼します。東大成町から来ました坂口です。天理教にたすけて頂いて神様へのお礼に、人をたすけて歩く修業をしております。何か困ったことはないですか?」

そして彼は虚ろな目をしながら言うのでした。

 

「宗教なんか、いらないよ。」

「宗教なんか、いらないよ。」

まぁそら、そうですわいね。笑

いきなり家を訪ねてこられて、いきなり困ったことがないか尋ねられても、信用が無いのだから。笑

8割くらいのお宅で、こんな感じであしらっていただいております。

そして、9割くらいの方はここで「失礼しました。」と言って引き下がるのではないでしょうか。だってお相手に嫌な思いをさせたくないし、自分も傷つきたくないですもんね。

常識的に考えれば、引き下がる方が多いのでしょうけれども、常識の範囲内にいるだけでは、信仰的な学びは少なくなってしまうことが多々ありますので、ここで信仰的なことを考えてみましょう。

人間の義理を病んで神の道を潰すは…

明治十三年の頃、天理教は当時の政府からの弾圧を激しく受けておりました。

おつとめ、という世界をたすけるための祈念をしてしまえば、たちまち警察が干渉してきて教祖は監獄へ入れられてしまいます。自分たちのことをたすけて下さった教祖なので、当時の信仰者たちはどうしても監獄へ入ってほしくはなく、おつとめを躊躇してしまいます。それでも教祖はおつとめを、たいそう急き込まれます。しかし信仰者たちはどうしても戸惑って…。

弾圧をうける教祖を守りたいという人間の義理を立てる気持ち

VS

「おつとめ」という世界をたすけるための神様の道を立てる気持ち

と板挟みとなって苦しみます。

あぁこの構図、おたすけに歩いていたり、日々通っていく中で、よく出てくるんだよなぁ…。

 

そして、教祖はこう仰ったのでした。

人間の義理を病んで神の道を潰すは、道ではあろうまい。人間の義理を立ていでも、神の理を立てるは道であろう。(稿本天理教教祖伝逸話篇「74 神の理を立てる」)

目の前の人間の義理よりも神の理を立てることこそが道なんだと、教えてくれました。自身が監獄に連れていかれて、人間の目線では凄まじく苦しい扱いを受けてしまうにもかかわらず、それでも世界をたすけるための神様の理「おつとめ」を立ててくれ、それこそが道なんだ、と教えてくれました。

 

ここまで切迫した状況ではないですが、今回の私の一件に関しても、似たような構図となっているのではないでしょうか?

なんとしてもおさづけへ

「目の前の人に嫌な思いをさせたくない、自分が傷つきたくない」という人間の義理を立てる気持ち

VS

神様の御守護を信じる気持ち

という構図なんですよね、今回の私の一件は。

目の前にいる明らかに何かを抱えている感じの方に「宗教なんかいらないよ。」と言われて、自分が傷つきたくないと引き下がってしまったら、神様の御守護を受け取って頂くことができなくなってしまうのですね。

ない人間、ない世界、この世のはじまりは泥海のように味気なくて寂しくて、そこから人間と世界を大変なご苦労をかけて造ってくださり、一分一秒あますことなくご守護を続けてくださっている親神様・教祖のたすけの凄まじさからしたら、人に嫌な思いをさせたくない自分が傷つきたくないという気持ちなんてチリやあくたにも満たないほどにちっぽけで…。

最初は、人間の義理よりも神様を立てるのは難しいからできないかもしれない。でも、人に嫌な思いをさせたくない自分が傷つきたくないなどの人間の義理を越えて、神様の理を立てていく中に、心にあるトゲがとれて、続けていけば親神様・教祖に使っていただけるだけの、神様に働いて頂けるだけのよふぼくになれるのではないかと、思うんですね。

だからこそ私は、断られても、相手におさづけ(病の平癒を願うお祈り)を受けて頂ける状況を、なんとしても作る姿勢で臨んでいます。

今回はこんな感じでふんばっていきました。

じゃ、やってもらおうかな

男性「宗教なんかいらないよ。」

坂口「いえいえ、信仰を押し付けるために来たのではないんですよ。人たすけたら我が身たすかる修業でね、自分の修業として歩いておるんですわ。お体のこととか、人間関係のこととか、何かお困りごとはないですか?」

男性「まぁ、頼むほどのことはないかなぁ。」

坂口「そりゃあ、結構ですね。健康が一番ですから。健康が一番ですが、一番ままならないのが健康ですよね。病院などにはいってないのですか?」

男性「病院?病院には行ってるよ。もう長いこと…。」

坂口「そりゃあ大変でしたね。人生いろいろですもんね。」

と、なんとかして話を繋いで繋いで、彼が抱えている病のことを教えてもらいました。詳しいことは書けないですが、精神的な病だそうです。

坂口「病のこと、大変でしたでしょうね。息ができる心臓が動く、これは当たり前ではなくて神様の御守護ありきのことですよね。ご主人がこれからの人生、もっと幸せになれますように、神様の御守護を頂けますように、おさづけという神様の御守護をいただける尊いお祈りがありまして、私は修業の身のものでございますから、そのおさづけをさせてください!」

男性「じゃあ、してもらおうかな…。」

と言って下さったので、彼の頭に向かっておさづけを一生懸命させてもらえました。

 

そして、一生懸命におさづけをお取次ぎしたあと、彼は笑ってくれました。

「御主人、ビタミンとかとってますか?お下がりの果物があるので、今度もっていきますよ。」

と言うと。

「ありがとう。またおいで。」

と彼はいってくれました。

 

人に嫌な思いをさせたくない自分が傷つきたくないとの人間の義理を立てず、神様の理のあるおさづけを一生懸命に取次がさせてもらうことで、頂けた縁でした。

こういう日々が、私自身の魂に徳をつけてくれて、やり続けていけば神様の道具衆として人を本当のたすかりに繋げてあげて、自分自身もたすかっていくようになれるのだと、信じて歩いています。

 

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