布教師なのに人だすけに歩かない、という日もあります。笑
明日が自教会の月次祭なので、本日は朝から自教会に帰って明日の準備のためのひのきしん(命を保ち続けて下さる神様へ感謝の気持ちで時間の御供え)をしていました。
戸別訪問を第一にした方が、たすかりの実が上がって、私のように「人だすけに歩いてあたわってくるものだけで生きる修業」をしている場合は人間思案としては良さそうに思えるものですが、あえて歩かずに自教会の月次祭の準備のひのきしんを第一にさせてもらいました。
お、おまえさん、「人だすけに歩いてあたわってくるものだけで生きる」とか言ってるのに、歩かなくて大丈夫なんけ?って思う方も多いと思います。私も、宿題が全然終わってないまま夏休みの終盤に来ているのにもかかわらず、遊びに行く選択をしてる時の「大丈夫なんか…?大丈夫なんか…?」みたいなビビり方をすることがあります。
でも、月次祭の準備のひのきしんの方を大切にするんです。
この優先順位の付け方は、お道、天理教の世界観が現れてくる割と重要な部分なので、本日はここら辺を書いていきたいと思います。
目に見えるものを頼りにすることについて
割とあれなんですよね、怖くなったりするもんですよね、将来に関して。私の場合だったら、食べ物が身の周りに無くなってきたりすると、生存できるのか不安になります。
人だすけに関しても、ぜんっっっっっっっっぜん相手にしてもらえない期間がずっっっっっっっっっと続くと、「戸別訪問なんてやめて、SNSマーケティングや子供食堂などの目に見える結果の出るアプローチだけしていこうかな」とか思ったりします。
目に見える結果が欲しくなって、手法の話だけに思考が乗っ取られてしまうんです。
SNSマーケティングや子供食堂をされている方を尊敬していますし、自分もやっていきたいと思っているので揶揄する意図はございません。自分が、手法の話だけに思考がとらわれてしまうのが、もったいないなぁと思うのです。(SNSマーケティングや子供食堂で実際に頑張ってらっしゃる方々は、手法の話だけに思考がとらわれていることはないような、素晴らしい信仰のある方々だと思っています。)
はたして、「こうやったら結果が出るよ」という手法の話だけをしていった先に、親神様・教祖が教えてくださった魂のたすかりがあるのだろうか…?と思うのです。
目に見える結果を頼りにすると、目に見えない神様を頼りにする心が薄れて、人に神様のたすかりに繋がっていただくだけの徳を積んでいくことが、できなくなるんじゃないかな。
自分自身が神様にもたれていく努力をせずに、魂に良い種まきの積み重ねがないままだったとしたら、「もう人生が行き詰ってしまっています…。」と絶望を感じている方が目の前にいらっしゃった時に、何をして何を言ってあげることができるのだろう。
ない人間ない世界を造ってくださってから一分一秒あますことなく命を保つご守護をし続けてくださっている親神様・教祖の親心を心で感じさせてくださり、私の生き方をさんげさせて下さり、「なんとか踏ん張っていこう」と心を持ち直す力をくれる先生は、小手先の手法にとらわれないで、どうやったら神様の望む用木となり神様におたすけの場面で使っていただくことができるのか、もがいて考えながら通ってきたような方々でした。
目に見える結果よりも、目には見えない親神様・教祖の御実在を頼りにして、心を磨いて魂を磨いていった先に、人たすけたら我が身たすかる、魂のたすかりがあるのではないかと思うんですね。
そういうことを親神様・教祖が説いて下さっている中でわかりやすく例えてくださっておりまして、それが「根」であります。
ぢば一つに心を寄せよ
根に関しては色々なご神言や逸話があるのですが、ここで一つ例を出しますね。
明治十九年六月に、諸井国三郎というご高弟の先生の「秀」という四女の娘さんが、体を天に返しました。
余りに悲しかったので、おぢば(親神様・教祖のおわす人の魂のふるさと)に帰って「何か違いの点があるかも知れませんから、知らして頂きたい。」とお願いします。
すると教祖は
「さあ/\小児のところ、三才も一生、一生三才の心。ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れても二方残る。太い芽が出るで。」(稿本天理教教祖殿逸話篇「187 ぢば一つに」
とお言葉を下さいます。
三才で体を天に返したとしても、この世に生まれてきた一つの人生であり、親神様・教祖の目から見れば人々の魂の上では深い意義のあることであった。人間の目から見ればとても悲しいことであろうけれども、人の魂のふるさとで、たすかりの理が世界に流れていくぢばに心を寄せなさい。そうして神様にもたれて通っていけば四方へ張るほど根が育ち、今回の娘のような悲しみでも倒れ切ってしまうことなく「これがありがたかったのだ」と思えるほどの太い芽が出てくるのだよ。
とざっくりとですが解釈できます。
欲を忘れてひのきしん!
心に親神様・教祖の御実在や御守護の実感を育てて、ぢば一つに根っこを育てていくからこそ、大変な思いをしている方々が神様に繋がって心と魂がたすかっていただくための徳を積んでいくことができて、そして人をたすけて我が身たすかる、という状態にまでなれるのだと思っています。
そして心の根っこを育てるためには
よくをわすれてひのきしん
これがだいゝちこえとなる(みかぐらうた 十一下り目 四ツ)
とあるように、自分が持ってる欲を忘れて、ご守護をし続けてくださっている親神様・教祖への感謝の気持ちで、時間や労働をお供えするひのきしんをしていくことが、なによりの肥まきとして栄養となるのだと信じています。
おぢばのたすかりの理をいただくための月次祭のために、ひのきしんをする。
ぢば一つに心を寄せて、欲を忘れてひのきしん!
このおかげで心の根が育ち、その心を見て神様がご守護をくれて、たすかりの必要な方との縁を下さり、彼らや私のたすかりにもご守護を下さるのだと、実際に歩いて確信しています。
なので、本日は歩かずに、月次祭の準備のひのきしんをさせてもらいました!
明日は月次祭!勇んでいきます!