人だすけに歩き続けて意味なんてあるのか?って思ったりもします。
毎日思ってるかもしれない。笑
必要やんね、心の支え。
お道、天理教の信仰者が心のより所としているうちの1つが、教祖(「おやさま」と呼び申し上げています。)です。
昨日4月18日は、ない人間ない世界を造ってくださってから一分一秒あますことなくご守護くださる親神様の社となって、世界をたすける教えを人々に伝えて下さった教祖に、41才のころになってくださった中山みき様の誕生祭がとりおこなわれた日でございました。
旬ということもあるので、今日は「歩いたところで無駄じゃない?」と倒れそうになる時の心の支え、教祖に関して少しばかり書いていきます。
グロッキーになることもある
気持ちの大きさに大なり小なりありますが、「人だすけに歩くことって、意味あんのかな?」と意義が見いだせなくなって自信を喪失してやめてしまいたくなる時もあるんですね。
1年のうちでもありますし、1ヵ月のうちでもありますし、1日のうちでもあります。
波みたいなもので、自信マックスゴリゴリマッチョでいける時もあれば、自信喪失ヨワヨワボーイな時もあります。
人だすけに歩いているのに、「困った人がたすかった」と目に見えてわかる結果を得られることはほぼないし、そればかりか、笑われそしられ裏切られることが大半の道中ですからね~。
極端に暑かったり寒かったり、加えて昼ごはんを食べていないのでお腹が減ってグロッキーなところに、尽くしている方の裏切りでもあったら、もうあれだよね、強烈なパンチをくらったみたいに立ち上がれなくなっちゃったりするんだよね。「あ○たのジョー」の世界観。すまねぇ、立てねぇ…立ち上がれねぇ…。
本日も精神的に弱ってしまったタイミングがありました。一生懸命に3時間かけて歩いていたのに、病の平癒のお祈り「おさづけ」をまともに一件も取り次ぐことができなかったのです。「あんたなんかいらない。」と30人に言われ続けて、お腹も減っていたので、「もう帰りたいな~。泣」と弱気になっていました。
根性論で頑張る事もできるかもしれないし、何かモチベーションが上がるような方法論もあるのかもしれない。
でも、こういうヘコたれそうな時こそ、正面きって信仰の話をしようじゃないか。
神様にもたれるためにはどうしたら良いのか勉強するための、大切な機会なのだから。
教祖存命の理
教祖は、明治陰暦正月二十六日に、体という着物を脱いで、現身を隠されました。
体はなくなりましたが、魂だけはおぢばのある屋敷に留まってくださり、時空を超えて、神様からすれば子供である私たち人間をお守りくださっています。
この「教祖は魂だけの姿になっても、存命のまま私たちをお守りくださっている」という理合いを、教祖存命の理といいます。
この存命の理が言及されたおさしづ(本席・飯降以蔵先生の口を通して出された親神様・教祖のお指図)で有名なものは以下です。
さあ/\これまで住んで居る。何処へも行てはせんで、何処へも行てはせんで。日日の道を見て思やんしてくれねばならん。
(中略)
姿は見えんだけやで、同んなし事やで、姿が無いばかりやで。(おさしづ 明治二十三年三月十七日)
「教祖は、そばにいてくださっていたのか」という実感
本日も「もう帰りたい。泣」となってしまう瞬間がありました。10km以上は歩いて、お昼ご飯を食べずにお腹が減って、そんな中で笑われそしられ続けてしまったのですもの…。
ここで、帰ってしまいたい気持ちを「いやいや、人だすけの道を歩く心を定めたのだから」と踏ん張り直して、また歩いていきました。
やり続けていくと、あるご婦人さんに出会いました。あれだけ苦労したのに、すんなりおさづけを取り次がせてもらえました。
あぁ、ありがたいなぁ…。
人と人との縁というものは、自分の力ではどうしようもない最たるもので、欲しいと思った繋がりをもらえず、求めていなかった関係をあたわることもある。神様の領域の話。
こうして、おさづけを取り次がせてもらえる方と出会わせてもらえたのも、親神様・教祖の御守護のたまもの。くじけそうな私の心を勇ませようと、教祖が縁を繋いでくださった、あぁ、ありがたいなぁ…。
忘れてしまっていた、教祖は魂だけの姿になって時空を超えて私のそばにいてくださっていることを。うまくいかない、孤独だ、辛い、帰りたい、そう心を倒してしまいそうな時も、教祖だけはそばにいてくださっていた。
そうして、くじけそうになりながらも、親神様・教祖の道具衆になるべく踏ん張って歩いていった私の心を、教祖は受け取ってくださっていた。
あぁ、ありがたいなぁ…。
教祖存命の理を味わうことができて、いずんでいた心が陽気なものに変わっていって、勇んで歩いていくことができました。
すると、あんなにできなかったのに、バンバンおさづけを取り次がせてもらえるようになったり、会話さえしてくれなかったおたすけ先の方が饒舌に喋ってくれたりと、後の結果が変わっていきました。
存命の理を味わえた瞬間に、冷たくなった心が温まり、後の結果さえも変わってくるんですね。
信仰って、ありがたい!
大変な出来事は「ためし」
最近は、苦労を避けたがる風潮がありますよね。
でも、私、思うんです。
どうせ、生きているだけでも、苦労ばっかりじゃないですか。笑
生きているだけで、お金はかかるし、病気にもなることもあるし、人間関係が破綻して心が荒れることもあるし…。
苦労があって、心がすさんで、そのままだったら運命も暗くなっていってしまう。
けれども、苦労があったとしても、むしろ良い種まきに変えて、心を勇ませていけば運命は明るくなっていく。
大変なことを、良い種まきに変えていけるのが、信仰のありがたさのうちの1つなんじゃないかな。
親神様の社となってくださった教祖は、筆にこう記して下さっています。
このたびハどんなためしをするやらな
これでしいかり心さだめよ(おふでさき 第十五号六)
大変なことがでてきたら、それは「神様からのためし」なんだよね。
「これは神様からのためし」と思い、むしろ心を定めて踏ん張っていくと、思いも寄らなかったふしぎなご守護を見せてもらえます。
するとご存命の教祖のご実在の確信が深まり、心に積み重ねていけば、それが大きな人だすけへと繋がっていきます。
親神様・教祖はこうも言ってくれています。
にち/\に心つくしたものだねを
神がたしかにうけとりている(おふでさき 号外)
いつもそばに教祖がいてくださり、私たちの心を受け取ってくださっています。
勇んで歩いていこうじゃないですか!