笑われそしられ罵倒もされたりしながらも、人だすけに歩き続けてます。笑
将来的にも歩ける限り歩き続けていたいと思っているのですが、一般的な見方からしたら「すぐにでもやめてしまいたい」と感じられる方が多いと思うんですね。
でも、自分としては割と楽しみながら、そして「続けていけば必ず我が身がたすかる」と確信めいたものを持ちながら、やり続けています。
楽しみながら、諦めることなく、そして人をたすける気持ちをもって、やり続けることができる。
これこそ、信仰のありがたさのうちの1つなんじゃないかな。
一般的には辛いことでも、ありがたくて楽しみながら続けることができる心理的なメカニズム、信仰のうちの1つの側面について今日は書いていきますね。
本日、起こってきたことは…↓
「無敵ゴールドDX」というヤバそうな栄養ドリンクを頂く
人だすけに戸別訪問に歩いていたら、頂きました。
「無敵ゴールドDX」という名前だけ聞いたらヤバそうな栄養ドリンクを。笑

これね、嬉しくて仕方がないんです。
修業の身ということでご飯を食べられるのか分からない不安の中、ずっとずっと歩いて、「あんたなんかいりません。」なんて言われ続けていっそう不安になって、そんな中だからこそ、私にこうして食べ物・飲み物を下さる方がいるだけで、心の底から嬉しくなります。
「あぁ、天からの与えだなぁ。」としみじみと感じることができて、神様への感謝の心が湧いてきます。すぐに神様へのお供えにします。
栄養ドリンクを頂いたわけなんですけれども、与えて頂いたのは本日のうち何軒目のお宅か、想像できますでしょうか?
答えは192軒目です。
1軒1軒丁寧に、「困ったことはないですか?」と問いかけながら歩いていると、190軒ほどで日が暮れてきます。
つまり、一般的には結構がんばらないと届かない数字です。
約190軒のうち、在宅なのは1/3ほどで、やっと人と会話できたとしても、基本的にはあしらわれてしまいます。
本日は、神様が縁をくださって栄養ドリンクを下さるような方と出会わせてもらえましたが、何も上手くいかない日もたくさんあります。
目に見える結果だけを望むことも大切だけど、自分にとって都合の良い結果がほとんどないという現実の中、ずっとやり続けることってできるかな?
戸別訪問に限らず、私たちの日々は、「喜ばしい結果を得ることがほぼないと分かっていながらも、続けなければならないこと」ってたくさんあるのではないかな。
むっっっっっっっっっちゃ苦手な人が職場にいたり家族になったり、または、簡単には治らない病になってしまってたり…。
それでも、私たちの人生は続いていく。
だからこそ、自分にとって都合の良い結果を得られないと分かっていても、喜びを見出して楽しんで日々を過ごしていく心の使い方を知って味わって実践していくことが、幸せな人生のためには、本当の本当の本当に大切なことなんじゃないかな。
目には見えてこない神様の働きを感じて味わっていく、つまりは信仰の中に、陽気ぐらしへの歩みがあります。
さぁ、今日も、信仰の話をしようじゃないか!
思うよう成るも 思うよう成らんも一つ理
「思うようにならない…。泣」となってしまうようなことが出てきてしまうものですよね。
私も人だすけに歩いて厳しい現実に直面して思うようにならないと、ヘコみます。笑
そんな時に、神様からのお言葉「おさしづ」がジンと胸にしみて、また踏ん張ることができます。
さあ/\尋ねる事情/\、さあ/\同じ尽す一つ道という。十分道を尽すなら心、又一つ事情の中にいろ/\ある。何処に居ても同じ理、神に尋ね、尋ねたらいついつまでさしづは違わん。なれど、取りよ聞きよで違う。よう聞き分け。幾重理、成る理成らん理、そこでどうせこうせ言わん。思うよう成るも思うよう成らんも一つ理。どうでも精神一つ。成っても理、成らいでも理、めん/\精神一つの理に委せ置こう/\。(おさしづ明治二十八年九月二十五日)
ざっくりとですが解釈しますと
ない人間ない世界を造ってから一分一秒あますことなく守護し続ける親神へ尽くしているなら、様々な事情が起こってくる。どこにいても親神の理は同じだけれども、人間の受け取り方によって違ってくる。都合の良い事が成る、都合の良いことが成らん、と人間の目には映っており、まるで人間の行く方向を親神が強制しているように思っているけれども、神は「どうしなさい、こうしなさい」と人間を細かに強制しているようなことをしてはいない。思うように成るのも、思うように成らないのも、親神からの「子供である人間が可愛くて仕方がない」という親心からできた理によって起こったことである。そしてこの親心に尽くす気持ちでやった行いは、人間の思うように成ろうと成らまいと、種まきとして十分に受け取っている。先々でどうなるか、咲いてくるかは、人間の精神一つにかかっている。思うように成っても成らいでも、親神の親心あるからのことと受け取って踏ん張っていくかは、銘々の精神一つにかかっており、まかせていこう。
と読み取れます。
※別の原典などから少し補足しているので、解釈はこのおさしづに限定されておらず拡大されたものになっています
自分にって都合の良いことが起きた時は、人間は喜ぶことができますが、都合の悪いことが起こってきた時は、喜ぶことができない方がほとんどなのではないでしょうか。
目に見える不都合だけを考えると「なぜ自分だけが…」と心が暗くなってきます。
しかし、この「思うよう成るも 思うよう成らんも一つ理」というおさしづ、親神様・教祖のお言葉を知って味わっていると、悲しい出来事が起こってきたとしても、「親神様・教祖の子供可愛いいっぱいの親心から自分に起きてきたこと。心を倒さずに人をたすける心をもって歩いていけば、親神様・教祖が受け取ってくださり、種まきとなり陽気ぐらしの花が咲いてくる…!」と喜びに変えていくことができます。
歩いていく、
ピンポンを押す、
うるせぇバカ!!と罵られる、
思うように成らなかったか…
思うよう成らんも一つ理、親神様・教祖の「心を磨いてほしい」という親心から起きた事…!
と悟ってまた歩いていく、
その歩みが種まきとなり、自分のよくわからない所で芽が生えてきます。
本日も、「うるせぇバカ!!」と言われながらでも歩いていたら、私のチラシを見たという方から電話がかかって来て、埼玉教務支庁で会うことになりました。
自分の力の及ばないところで、神様が働いてくれたと感じています。
都合の良くないことこそ、自分のちっぽけさを悟ることができて、親神様・教祖の親心を味わっていくことができます。
思うよう成らんも一つ理、これを知って味わっていくことで、都合の良くないことも、先々の結構のための種まきに変えていくことができます。心が変われば、運命も良い方向へ必ず変わっていきます。
目に見える結果だけに向いていくと、心が暗くなってしまいます。
目に見えない神様の働きや心に向いていくと、全て種まきと悟れて、心が明るくなっていきます。
こうして失敗でさえ喜びに変えて日々を勇んで歩いていくことができるのも、信仰のありがたさのうちの1つですね。
さぁ共々に、思うよう成らんも一つ理と悟り、勇んで歩いていきましょう!