尽くしてきた方に縁を切られるという出来事が本日も起こりました。笑
70代のご婦人さんとの出会い
2021年度は布教の家 埼玉寮の寮生をさせてもらっていました。その年の夏の終わりごろに、あるお宅のインターホンを押したところ、現れてくださったのはご婦人さん。
坂口「こんにちは、天理教です。この道にたすけていただいて、神様のお礼に人をたすけて歩く修業をしております。何か困ったことはありませんか?」
ご婦人「あら天理教?昔、住んでた家の近くに教会があったわよ。」
とご婦人さんから話を広げてくださいました。
話を聞いていくと、詳しくは書けませんが、現在70代で、大病を患っていらっしゃったり、家庭も大変なことがあったりと、今は一人で暮らされているそうです。出てくる言葉が他人を否定する内容ばかりで、相当に苦しんでいる様子…。
とても孤独なのでしょう。玄関の前でご婦人さんと私、二人とも突っ立ったままで話を続けてくださり、2時間もの間、私は立ったまま彼女の話を聞いていました。
そしてやっと落ち着いたころに、病が良くなる事を神様に願うための「おさづけ」をさせてもらえ、私は住まいに帰れたのでした。
家に入れてもらえるようになった
訪問しては、1時間ほどご婦人さんの苦しみの話を聞き、おさづけを取り次ぐという関係が続きました。
ずーーーーーーーーーっと玄関のドアの外でこの流れ。笑
4ヶ月、通い続けて、冬の空気も浸透し切ってきたある日、「寒くない?」と言ってくれて玄関の中に入れてくれました。
あぁやっと信頼してもらえたんだな、二人で一緒にたすかりに向かっていければ嬉しいな、中のちゃんとした部屋に通してくれるのかな?…なんて一瞬期待したけれど、
玄関にイスを置いてそこに私を座らせてくれ、後は同じ流れ。笑
うおい。笑
でも、ちょっと信頼してくれたようで、嬉しかったです。笑
そんなこんなで、ご婦人さんの周りである事件が起こり、「ある物品が必要になったから買ってきてくれない?」と頼みごとをしてもらえて私が買いにいったりと、尽くして尽くして尽くし続けておりました。
ちょっとずつ、ちょっとずつ、信頼関係ができていったら嬉しいな。大変な病と悲しみの事情をもっていらっしゃるけれども、神様の御守護をいただけるまで、私も踏ん張っていかないとなーっと頑張っておりました。
ピンポン押しても出てくれなくなる
そして8ヶ月ほど頑張り続けてきて今日、久しぶりにお宅を訪ね、インターホンをピンポンしてみると、お宅の中の方で玄関に近づいてくる足音が聞こえます。
体調はお変わりないかな?
本日はどんなお悩みを話してくださるのかな?
と私は考えながらご婦人さんが玄関を開けてくれるのを待っていました。
いよいよご婦人さんが玄関のドアにつき、外を確認するスコープから私が到着したのをご覧になっている気配がします。
いつもだったら、ここでドアが開いて「あらーまた来てくれたのね。聞いてよ、こんなことがあったのよ…。」と悩みの吐露が始まるのですが…
今日は、開かない…。
ドアが、開かない…。
ドアの向こうにご婦人さんがいるのに、開かない…。
いや、開かないではなく、私のことを見て確認した上で、開けてくれない…。
あ、これあれだ、縁を切られてしまったやつだ…。泣
8ヶ月、尽くして尽くして尽くし続けた方だったので、落ち込みました。トホホ…。
目に見える結果としては、散々です。
でも実は、こういう心にダメージを負うような時こそ、親神様・教祖のお言葉や通ってくださった道すがらが心にしみていく大事な大事な機会なんじゃないか。
目に見えない心の、信仰の話をしようじゃないか。
そもそもなんで、私が人だすけに歩いているのか?
それは、人をたすけること、神様のたすかりに人を繋げて差し上げることが、我が魂をたすけることになると信じているからなんですね。
人たすけたら わがみたすかる
私自身も含めて人間というのは何かしら抱えているもんだなぁと、歩く日々を送って実感しています。
ある人は、大病に悩んでいらっしゃって、ある人は、家庭内が冷えきってらっしゃって、ある人は、職場で不遇な状況となってらっしゃいます。人それぞれの、一名一人の苦しみがありますね。
なんでかといえば、神様が人を造ってくださる際に、心の自由をくださったからなんですわ。
一名一人がそれぞれ自由に心を使って、我さえ良ければの悪い心遣いをしていって、何千回と生まれかわってその心のほこりが悪い種として魂に積み重なり、心に悪しき癖・性分として焦げ付いて、これが人それぞれの苦しみを運んできてしまう。
心一つが運命を良くも悪くもしてしまう。
だからこそ、親神様・教祖の親心を知り、神様をほうきとして心の汚れを払っていくことが、運命を切り替える上で、本当に大切なことなんですわ。
何も意識をしなくても、心臓が動いて息ができて、雨が降って日が差して風が吹いて、ない人間ない世界を造ってくださってから一分一秒あますことなく神様が親心をかけてくださり、私たちの命がある。神様の子供かわいい一杯の親心を味わって、「こんなに大変だけれども、神様は親心をかけてくださる」と負の感情を払っていく契機にする。
そしてその神様が「人と人とが、互いに仲睦まじくたすけあってほしい」とお望みなんですね。親神様の社となって、心は親神様となった教祖(お慕いする気持ちで「おやさま」と呼び申し上げています。)が、50年に渡って苦労の道中を歩んでくだり、そのひながた、お手本を示してくださいました。
心のほこりを払いながら、ない人間ない世界を造ってくださってから一分一秒あますことなくご守護くださる親神様の恩を味わい報いていく心を定め、教祖の示してくださった50年に渡るひながたをたどって人をたすけて行く中に、自分自身が何千回もの生まれかわりで魂に積んできた悪い種が切れて、良い種まきがされていって、人生が陽気ぐらしに近づいていくと、信じているのですわ。
尽くした、ダメだった、だからこそ良いんだ
尽くした人に縁を切られるなんて最悪じゃねぇか…。
なんて、人間思案からしたら思っちゃいます。笑
でも歩く日々を送る今は、「尽くした、ダメだった、だからこそ良いんだ」と思えます。
笑われそしられて、それでも子供かわいい一杯の親心をかけ続けてくださったのが、親神様の社となってくださった教祖。
今回の様に、尽くして尽くして尽くした人に、笑われそしられ裏切られてしまうこともある。
っていうか、そういうことばかりかもしんない。笑
その中を、神様の親心を悟って喜んでいく。自分の魂の悪い種を切るために親神様・教祖が大変な人をつけてくれたと喜んでいく。
そうして、人をたすける苦労を喜んで通っていく中に、教祖のひながたを万分の一でもたどる道があり、続けていけば、魂に積んだ悪い種が切れ、魂のたすかりに繋がっていくと、歩き続けて実感しています。
目に見える結果を見たら、喜べない。
けれども、目に見えない心から見れば、教祖のひながたを万分の一でもたどることができた。
むしろ、教祖は人をたすける大変な道中を通ったのだから、上手くいくよりも、上手くいかない中を喜んで通る方が、教祖のひながたをたどることができて、いっそう魂のたすかりに近づけるんじゃないかな。
開かないドアをみる。
残念になる。
いやいや、「だから良いんだ。」と思い、また歩き出す。
尽くした、ダメだった、だからこそ良いんだ、こうして喜びながら歩いていく中に、魂のたすかりがあるんですね。
さぁ共々に、「良いことなんてありゃしない」となってしまいそうな日々でも、だからこそ喜んで通っていこうじゃないですか。